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間一髪

 今日はスリップしかけた。 自分が思い描く理想のシチュエーションに遭遇してしまった。 だけど、僕の前にすでに同じ問題行動をしている人がいて、僕はできなかった。 その人がいなかったら、たぶんスリップしてた。 間一髪免れた。 スポンサーに連絡したら、祈ることを忘れてないか、と聞かれた。 僕は、祈ってたし神さまが助けてくれたと思う、と答えた。(実際その時はめちゃくちゃ祈ってた) すると、スポンサーは、そう思うのなら感謝の祈りを捧げたらどうか、と提案してくれた。 感謝の祈りなんて、捧げたことがなかった。 普段は自分の意志で好きなように生きて、ピンチになると神さま助けてくださいと祈る。 それでピンチを免れたら自分の手柄だし、さらに悪い方に転がれば、神さまチクショーこの野郎ってことになる。 今日だって、助けてもらったことがありがたいと感じる一方で、絶好の機会を逃してしまった悔しさみたいなものがあって、頭から離れない。 すごくイライラする。 2日後はミーティング。

自分中心だから恐い

 先日ウチのグループが著作権を侵害しているとして、ISOに通報されまして、いろいろ考える良いきっかけになった。 結果的には、ISOからは何のお咎めもなく無事でした。 そもそも、12ステップグループのメンバーである私たちは、「身体的にも精神的にも霊的にも病んだ人たち」の集まりなので、自分の思い通りにいかないことに腹を立てて、そのグループやメンバーを通報したり、告発することはよくあることらしい。 僕は初めてのことでずいぶん動揺しましたが、経験者からすると「そういうのは放っておけばいいさ」ってことらしい。 先輩方が、みんな口を揃えてそういうアドバイスをしてくれるのに、病んでいる僕は「いや、それでも今すぐ完璧に対応しなければならない!!」とやけになって、色々調べまくって頭パンクしそうになってました(やっぱり僕は痛い目みないと分からないらしい)。 これのどこが神の導きに従っている生き方なんだよ、と頭の片隅で自分にツッコミをいれつつ、「徹底的に問題をクリアして非の打ち所がない鉄壁を築かねばならない」と奮闘するその様は、まさに「何もかもを取り仕切りだがる役者」そのものでした。 何もかも取り仕切りたがるとは、つまり、自己中心的ってことで、神ではなく自分を中心に据えているから、恐くて恐くて仕方がない。 恐くて恐くて仕方がないときは、自分を頼りにしているのかもしれない。 最終的には、最低限の問題だけ修正して、あとはそのままにしました。 最初からそういう導きなんだから、そうしろよっていう話ですね。

腑に落ちないまま

 スタディミーティングのリーダーたるもの失敗は許さないし、参加者の質問には完璧に答えられなければならない、SAAの創設者でグループリーダーであるぼくは全能でなければならないんだ!ってずっと本気で思ってた。いまもどっかで思ってる。 だけど、それって自分を神にしていることと同じだよなって最近思う。 スタディ公式ブログも、AAメンバーの先ゆく人たちに憧れて始めたから、 彼らみたいにたくさん難しい本を読んで、知識を積み上げて、非の打ち所がない理路整然とした文章を書けなければならない!って奮闘してた。 AIに考えを丸投げして、「文章を最適化して」ってお願いしたこともあった。 だけど、そんな文章を投稿したって、自分の回復には何の役にも立たなかった。 むしろ、本当の自分を否定するような感じがして、二重生活ぶりがひどくなっていくばかりだった。 みんなは才能があって羨ましいな、などと考えて、自分の現在地から目を背けていた。 今回のスタディブログからは、そういう自分の殻というか、思い込みみたいなのを捨てて、自分らしく書いてみた。分からないことは分からない。教えてもらったことは、教えてもらったこと。自分の手柄じゃない。そんなふうに正直に書いてみた。

自分に正直になる能力

 僕はとても幸運なことに、12ステップコミュニティの中では、比較的早い段階でソーバーを得た。 これは僕の手柄ではなく、紛れもなく神から無償で与えられたものだ。 スタディミーティングをやるようになり、参加者のほとんどが、自分よりも一回り以上も年上の人たちだ。 僕は心のどこかで、彼らを見下して、自分は若くしてソーバーを得たんだ。だから、自分は正しいんだ。という感覚に酔っている気がする。 そしてこの優越感には、これが神から与えられたものである、という事実をいとも簡単に忘れさせてしまう魔力がある。 僕は参加者に対して「自分に正直になる能力がない不幸な人たちだ」と決めつけて接している節がある。 しかし、自分に正直になる能力というのは、花の蕾が開くタイミングを神が決めているように、20代で開花する人もいれば、40代や50代になってから、あるいは人生のほとんど最期になってから開く人もいると思う。 もちろん中には、最期までこの生き方に身を委ねられない人たちもいるとは思うけど、 やっぱり僕たち人間には、その可能性を最後まで捨て切ることはできないと思う。 ビッグブックは、霊的な生き方を発見したことを金脈を掘り当てたようなものだと例えていたけれど、 金脈を掘り当てさせたのは神であり、自分の能力が高かったから金脈を掘り当てられたわけではないことを忘れてはいけないな。 まぁ、そうは言ってもまた忘れてバカを繰り返すんだろうけど。

海外のグループを礼讃しているのではなく、問題提起として

  僕が参加しているフランスのSAAのグループチャットでは、ニューカマーが参加すると、惜しみない支援の手が差し伸べられる。  「次のミーティングはいついつ開かれるよ」  「〇〇はスポンシーを募集しているよ」  「ここで文献が買えるよ」  「こんな資料を共有するね」 「誰々がこんな記事を書いていたよ」  そんな風に、次々と情報やサポートが差し出される。  それに対してニューカマーも、素直に感謝を伝え、実際に行動へと移していく。  そして数か月後には、そのニューカマー自身も、拙いながら、自分が無償で与えられたものを次の人へ手渡していく。  そんなやりとりが、ほとんど毎日のように続いている。  だから僕のWhatsAppは、数日開かないだけで通知が100件以上たまる。 一方で、日本のグループでは、少し違う構図が見える。  一部のメンバーだけが無償の奉仕を続け、他の参加者はそれを受け取り続けるだけ、という状況が長く続いている。  特に感謝を伝えるわけでもなく、行動に移すわけでもない。  せいぜいスタンプでリアクションする程度で、自ら新しい領域に挑戦することもなければ、それをニューカマーへ手渡すこともない。  基本的には、「独り占め」に近い状態になってしまっている。  これは「日本人の性質だから」で片付けてよい話ではないと思う。 共同体が一部のメンバーの奉仕によって存続しているとすれば、それは明らかに異常な状態だ。 私たちが「受け取ること」を当たり前にして、誰にも手渡していかないのだとしたら、どうしてこの共同体が100年後も存続できるだろうか。

手段の目的化

 AAには「 バック・トゥ・ベーシックス(BtoB) 」というフォーマットがある。 これは、ワリー・PというAAメンバーが、50~75%という高い回復率を記録していた1940〜50年代当時のAAで、実際に行われていたプログラムのやり方を再現したものだ。 しかも、このプログラムは、たった4時間で12のステップすべてに取り組める、という謳い文句だった。 当時、12ステップの「やり方」に飢えていた僕には、この「原点に立ち戻る」というやり方が、輝いて見えた。 ようやく僕は、見つけたのだ。 これさえやっていればもう大丈夫だ。 本気でそう思った。 最初は、確かにそれでよかった。 でも、だんだんと味がしなくなっていった。 はじめてBtoBに取り組んだ時の感動が、回を重ねるごとに薄れていく。 あぁ、あの感動をもう一度取り戻したい。 そして、いつしか僕は、ただバック・トゥ・ベーシックスにしがみつくだけの人になってしまった。 それはもう、僕の回復の役には立っていなかった。 でも、認めたくなかった。 「これが正しいんだ。このやり方が正統なんだ。他の人たちはみんな分かっていないんだ。この正統な12ステップのやり方をみんなに広めなければならない。それが神が私に与えた使命なのだ。そうに違いない。あぁ、神様、私に力をお与えください!」 そんな祈りを、毎日のように本気で唱えていた。 今思えば、これを狂気と呼ばずして、何と呼ぶのだろうか。 バック・トゥ・ベーシックスは、確かに優れたツールではあるが、それは初心者にとって有効な手段なのであって、いつまでもそればかりを使っていては、成長しているとは言えない。 私たちの本来の目的は、「原点回帰」を続けること ではない。 アディクションからの回復と、他のアディクトにメッセージを運ぶこと だ。 いつまでも古いやり方にこだわって、原点回帰がまるで儀式のようにはなっていないだろうか。 それは、嗜癖的な執着を続けていることと同じだ。 何度か原点回帰をして、先人たちの知恵に触れたのなら、今度はそれを現代に持ち帰って再構築するという作業が必要だ。 それは面倒で大変なことだし、痛みや批判を伴うものだから、僕たちは安全で構築化された「正しいやり方」に戻りたくなる。 だけど、痛みや批判を伴う活動が、いま苦しむアディクトにメッセージを運ぶために必要な行動だったとしたらど...

仲間と電話

 仲間と電話をした。 新しいグループを始めるにあたって、その人と電話することが必要だろうとスポンサーからも提案されてたし、僕もそう思ってた。 だけど、なんとなく先延ばしにしてた。 「自分ひとりの考えでも上手くやれるさ」 無意識のうちに、そんな風に考えてた(電話をしたから気づけた)。 そのメンバーはブログを書いていて、その人の最新の記事がとっても良かった。 だから、電話をかけようと思えた。 ・・・ アディクションは違えど、僕はそのメンバーと「おんなじだ」。そんなふうに感じた。 僕は彼を必要としているし、彼も僕を必要としてくれている。 ダサくても、情けなくても、回復のために、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないんだと、その人は行動で証してくれている。 口先だけじゃないから、信頼できる。 僕もそうなりたい。 もっともっと回復したい。 分からないことだらけだけど、「すべて解る」まで待っていたら、アディクションが先に僕に追いついてしまうだろうな。 だから、分からないことを認めて、未回復なことを受け入れて、それでもグループリーダーを引き受けよう。 理想の回復者に見られるために、noteを書いていたあの頃の僕には、できない選択だと思う。 みんなをうまく騙せていると本気で思ってた。 けど、言わないでいてくれてただけだったんだな。 それでも指摘してくれた一部の人を、僕は恨んだ。 「どうしてこんなに頑張って素晴らしい記事を書いたのに、批判するんだ!!」って。 (しかもその記事っていうのは、誰からも批判されないようにと祈りながら書いた不正直の塊みたいな記事だった) だけど、それは裏を返すと、相手の考えを無視している自己中そのものだ。 自分の思い通りに周りの人には動いてほしいし、評価してほしい。「僕を褒めて、讃えて、崇めて」って、それを「自分を神にしている」と、言わずして何というのか。 そんな生き方を続けているから、アディクションが頭をもたげる。 女の子の頭を鷲掴みにして、喉奥に突っ込みたくなる。 これは、僕の自己中心性の賜物だ。 僕はこのままではダメだから、グループにいるし、プログラムを使っているはずだ。 だから、指摘されることは、本来ありがたいことなはずだ(今のままの自分が完璧ならグループに行く必要なんて無い)。 他のグループメンバーは鼻が効くから、すべてお見通しだ。 同...

スリーサークルの記録

僕は今、SAAのスリーサークルを使っている。 日本にSAAは無いし、SAAメンバーもいない。 だけど自分のセックスアディクションの回復のためには必要だ。だから使っている。 AAメンバーのスポンサーの提案で、海外のミーティングに参加してみた。 そこで、たまたまフランスに住んでいる日本人のSAAメンバーを紹介してもらった。ありがたい。 今はその人に、スリーサークルを見てもらっている。思いつくままに現状を書く。 (僕のこの最初の経験は、時間と共に風化していくので、文字に残している。後々、日本のSAAにとって貴重な資産となるかもしれない。) 僕の今のサークルズは以下の通りだ。 ___________ ⚫︎インナーサークル:露出、盗撮、痴漢行為 ⚫︎ミドルサークル:ポルノの視聴(長時間or外出先or虐待的な内容orインナーサークル行為の再現)、性的な妄想に耽ること、見知らぬ女性の身体を凝視すること、ターゲットを物色して街や店内を徘徊すること、女性の後をつけること、待ち伏せ、声かけ、急接近すること、見知らぬ女性にポルノの画面を見せつけたり、大音量で鳴らすこと、ナンパ ⚫︎アウターサークル:プログラムに取り組むこと、日々の棚卸し、祈りと黙想、他の人を助けること、妻や周りの人たちへの埋め合わせを続けること、他の人の気持ちを考えてその人たちのために働くこと、趣味の音楽を楽しむこと、ギターの演奏、宅録、音楽活動、友人たちと遊ぶこと、妻とのデートやドライブ、日々のコミュニケーション、仕事を誠実にこなすこと、他の人を頼ること、相談すること、気持ちを隠さない、正直に生きる、リラックスする、温泉に入る、美味しいご飯を食べる、タバコや酒はほどほどに嗜む、映画を見る、お笑いを観てよく笑う、ライブを観に行く、挨拶をきちんとする、感謝の気持ちを忘れない ___________ これを、チャットで送った。受け取ってから、1日くらい考えてくださり、 そして今夜、「電話をしませんか」と言ってくれた。すぐに、予定を取り付ける。 日本とパリの時差は−8時間。向こうはランチタイムの短い時間でサークルズについて色々と教えてくれた。電話した時間は41分間。彼は、短い時間で要点を端的にまとめて話してくれて、最後に「質問はありますか?」と聞いてくれて、なければ終了。結構シンプル。 彼が教えてくれたことを以下にまとめる。 ...